野菜

行った場所の記録

台湾に行ってきた(うそレポート2日目)

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同行者に台湾での日々を思い出させることにも成功したうそレポート。

 

2日目、未だはじめての海外に対する興奮が覚めていないようで、朝はスムーズに起床した。

化粧を済ませた後、同行者とともに今日の予定と交通機関の乗り換え方法を念入りに確認した。その日は猴硐と九份に行った後に火鍋を食べる予定であった。

猴硐は猫がたくさんいることで有名な村、九份は電車の中でよく天井からぶら下がっている幻想的な光景の町である。

千と千尋の隠しのモデルになったともいわれている大人気観光地で混雑が予想された。旅行雑誌の九份に関する項目はよく読み返した。そんなに広くはないため2,3時間で回ることが可能。夜の20〜21時ごろは帰りが混雑するため注意、夕方から夜にかけてが綺麗、云々。

確認が終わって各自荷物をまとめ、ホテルを出た。この日は朝ご飯に外でお粥を食べると決めていた。

公園の横を通り過ぎるとタンクトップのご老人がたくさんいた。おそらく太極拳をやっているようだった。生太極拳である。同行者と2人、テンションが上がってしばらく見てしまった。

寄り道をしつつも、無事にお店についた。観光雑誌に載っているだけあり、昨日行ったお店よりは綺麗な感じであった。海鮮のお粥を頼んだ。

朝10時なのにも関わらず、それなりにお客さんが入っていた。お粥を待っている間にも絶えず新しく人が入ってくる。昨日行った故宮博物院や夜市の話をしている間にお粥がきた。

やや小ぶりな丼の中になみなみ入っている。匙でかき回すと具がかなり入っていることがわかった。これで300円なのは安いな…と思いながら一口食べた。

海老の香りがくちいっぱいに広がった。出汁もよくきいててとても美味しかった。脂っこいものを昨夜食べた胃にしみた。

結構しみじみ食べていた気がしたのだがあっという間になくなっていた。支払いにもだんだん慣れてきたな…と思いながら勘定を済ませて駅に向かった。

西門から猴硐までは電車で行くことができる。

板南線に乗り、南港駅で乗り換えた。この時、乗り換えがスムーズにいかずに少し動揺してしまった。台北鉄道に乗り換えて10駅どうにか着いた。時刻は12時だったため、お昼を食べる場所を探した。

猴硐は猫が沢山いる村として有名で、ご飯屋さんを探している間に猫モチーフの物が沢山置いてあった。猫の銅像がデフォルメされていて少し奇妙な雰囲気を醸し出していた。あちこちに猫がいて、ちょろい人間であるわたし達はすぐに猫のもとに走っていってしまいご飯屋さん探しはとても難航した。かわいいものの前に人は無力である。どの猫ちゃんも愛嬌があったのだが特に茶虎の猫ちゃんがかなりたくさん撫でさせてくれた。神楽坂のむぎまる2のすんちゃんを彷彿とさせる猫ちゃんだった。このこにも名前があったのだろうか。

どうにかご飯屋さんにたどり着いたのは14時。

もうおやつの時間になってしまったので猫のクッキーが載っている蒸しパンみたいなケーキを食べた。キャッチーな見た目に反して上品な味だった。

この後さらに猫ちゃんを満喫して駅に着いたのは15時だった。電車に乗り、隣の瑞芳駅に向かった。観光客らしき人についてバスに乗り換えた。揺られること40分、無事に九份にたどり着いた。到着時刻は16時。猫ちゃんに翻弄されたわりに計画通りではあった。まだ夕刻までは少しあったため、お店を冷やかしながら石段を登る。人が多くあまり道端には立ち止まらない空気だった。浅草寺の仲店通りに雰囲気が似ていた。途中、中華風サンダルでかわいいものがあったのだが、観光地価格だったためぐっと堪えた。電車の広告で見た通り赤い提灯があちらこちらにあった。

17時半、石段の頂上にたどり着いた。周りの人に押し合いへしあいされつつも街を見下ろすことができた。山を背景に夕陽と提灯に照らされた町はたしかに美しくて幻想的だった。どこか温もりを感じさせる景色で一筋だけ、涙がこぼれてしまった。最近読んだ漫画に「恋という感情は懐かしさだ。」というような描写があってその場面が鮮やかに蘇った。感極まって思わず同行者の手を強く握ってしまった。

日が沈むまで景色を眺めて石段を降った。

バス停にたどり着き、バスに乗る。

景色の話をしているうちにふと、聞き覚えのない駅の名前を聞いた。

わたし達は瑞芳に向けて戻っているはずである。それなのに、聞き覚えのない駅の名前を聞くことはあるのだろうか。

答えは否である。このバスは反対方面だった。慌ててバスを降りて反対方面に向かう。この時、バス停がなかなか見つからず苦労した。どうにか瑞芳行きのバスを見つけて乗る。

結果的に空いてるバスに乗れてラッキーな気がしないでもなかったが肝はやや冷えた。瑞芳駅にたどり着き、電車に乗って台北駅に向かった。

事前に調べていた火鍋の店に向かう。同行者が辛いものが好きで一度食べてみたいという要望があったため火鍋を食べることにした。

念のため、ミント味のガムは日本で購入した。いざ火鍋…!

お店に入り、火鍋を頼む。香辛料の香りが漂い、緊張の面持ちで話をしている最中、白と赤のおめでたい色のスープが運ばれてきた。

親切なお店で店員さんが具材のセットしてから下がってくれた。地獄の釜のようにぐつぐつ煮たっている。

一通り火が通りお互い皿に装う。はじめは赤い方から。白菜を口に運んだ。

熱い、美味しいが順番にきた。ピリっとするけれど食べられそうだ。二口目を口に運ぼうとした時異変が起きた。

暑い、痛い、である。慌てて水を飲んだ。

目の前の同行者にバッテンマークのジェスチャーをした。ダメです。

結局その後は同行者が滝のような汗を流しながら美味しそうに一人で食べていた。ちなみに白い方はわたしも美味しく食べられた。

シメはラーメンだった。満腹のお腹を抱えて満足でお店を出た。

お店から駅に向かうまでの道には歴史を感じる建物がいくつかあった。おそらく日本統治時代のものなのだろうな、と予測ができた。暗い中そびえるそれらの建物は九份とは別の幽玄な美しさがあった。近代のものがわたしは好きなので興味を持ってそれらを見た。

しばらく散歩して時間は夜の22時、駅にたどり着き西門に向かった。いよいよ明日が旅行の最終日、車窓から外を眺めながらなんだか少しだけ寂しい気持ちになった。

台湾に行ってきた(うそレポート1日目)

3月上旬、台湾に行ってきた。

国内旅行が好きで、今まで一度も海外に行ったこともなく、卒業の機会に海外旅行に行こうと決意した。パスポートの申請は余裕を持って、旅行雑誌も3冊も買ってしまった。

計画も分刻みで、換金は渡航先ですべきであること、ポケットWi-Fiが必要なこと、お水のことや、公衆トイレのこと。海外旅行の調べることの多さに驚きつつも準備万全、羽田空港から飛び立ち3時間、桃園空港にたどり着いた。

保安検査は前回の長崎旅行で経験済みだったのでスムーズにできてよかった。スーツケースが壊されていたらどうしようと不安もあったものの、綺麗な状態でかえってきた。

換金はテキパキしたお姉さんのおかげで無事ににすみ、空港から市街地に行くバス停も探すのに苦戦しつつも余裕を持って発見することができた。

隣のおじさんが食べてる甘栗の香りを嗅ぎながら、満杯の車内で揺られること30分、宿泊予定の西門にたどり着いた。

今までの人生で円しか使ったことがなかったため、向こうの通貨で支払うことはドキドキしたが車掌さんが親切に教えてくれた。謝謝!

事前に見ていた観光雑誌によれば西門は日本でいう原宿の立ち位置らしい。雰囲気は都心の感じに少し似ていたが、原宿よりもゆったりとした空気が流れている気がした。

また、香辛料の匂いがどこからともなく香っていて、そこで初めて異国にきた実感が湧いた。

チェックインまでは時間があったため、近くの料理屋に入る。同行者の人と、ご飯を食べるとき半分は有名店で、半分は現地で目に入ったお店で食べようと決めていた。

店に入ると異国の言葉で何かを言われた。「いらっしゃいませ。」ということなのだろうか。

机に案内される。水は出されなかった。

メニューからかろうじて読めて言える自信のある烏龍茶と魯肉飯を頼んだ。

店内を見渡すと壁がやや黄みを帯びていて少しだけ不安になったが家族連れも多かったため、まあ大丈夫だろうと心を落ち着かせた。各テーブルには赤い提灯が置かれていた。テレビで流れているのはおそらく大河ドラマのようでヒゲの軍人らしき人たちが喧嘩をしていた。

ついに来ちゃったね、と何度目か分からない言葉を同行者にいった。わたし達はお互いはじめての海外旅行で不安ながらも心待ちにして楽しみにしてきた。

この後は故宮博物館に行って夜市に訪れる予定だった。電車の場所と乗り換え方法を確認しているうちに頼んだものがきた。

烏龍茶は日本のものより香りが良くてこくがあった。家族のお土産にいいかもしれないと思いながら魯肉飯を食べる。

あまだれや香草の香りがわたしは苦手なのだが、この魯肉飯はとても美味しかった。烏龍茶とよく合うのが理由かもしれない。

脳裏に、谷崎潤一郎の『細雪』でロシア人の女性が日本の中華料理店は見た目が汚いお店の方が美味しいと言っていたことが過ぎった。

以前の旅行は一人だったため、感想の共有ができなかったことが寂しくもあったが、今回は味の感想を言い合いながら食べられたのでことさらに美味しかった。

食べ終わり、少しもたつきながらも会計を済ませて外に出た。ホテルまで歩き、チェックインを済ませた。ホテルには日本語ができるスタッフがいて少しホッとした。

荷物を置いてお腹を少し休めたあと、ホテルから駅に向かった。駅は歩いて5分ほどの場所にあるようだ。当たり前だが、街中で日本語はほとんど聞こえなかった。心細さと新鮮さが胸をいっぱいにした。

電車は地下鉄だった。切符の買い方や路線図の見方は日本と大差ないようだった。複雑怪奇首都圏内の路線図を見慣れているわたし達はそこまで困ることもなかった。

当たり前のことだが電車内の表示が全て漢語であったのが印象に残った。

電車を降りたのち、バスに乗った。

この時、バス停の場所がわからず、現地のお兄さんに中国語で尋ねたら中国人と勘違いされたらしく、道順を中国語で説明されて慌ててしまった。第二外国語で少しだけ習ったからカッコつけてしまった。ごめんね。お兄さん、うぉーしーりうべんれん。

そんなこんなありつつも、無事に故宮博物館にたどり着いた。

堂々たる白い建物は美しく立派だった。中でチケットを購入すると大理石なのだろうか、白い階段が目の前に現れた。階段の右端には龍の、左端には虎の彫刻が置かれていた。

龍と虎に睨まれつつ階段をのぼる。

有名な翡翠で作られた白菜の彫刻はなかったが、角煮の方は展示されていたため、展示室に向かうと想像以上にリアルな角煮が飾られていた。彫刻らしさを残しているとこといえば当たっている光の照り返しがかなり強いところくらいだった。

赤い壁紙や絨毯で染め上げられた部屋の中で堂々とした角煮があるのはなんだか迫力があった。

美術館や博物館は好きだが、文化的な価値や芸術的な魅力はいまいちわからないのでとりあえず、まんべんなく回った。

個人的には猫を抱いた天女の絵が美しいなと思った。真っ白い肌と真っ白な猫、黒いさらさらした髪と伏せられたまぶたとまつげ、赤くて小さな唇。たった三色のいろのコントラストがシンプルでモダンな感じがしたのが良かった。

これ以外はいろいろ見たのだが、とにかく中が広すぎて印象がぼやけてしまった。悔しい。

各展示室の色味が鮮やかなのに作品を邪魔することなく素晴らしかったな、とは思った。

この後、博物館の前に庭園があったので夕陽に染まる中散歩をした。白梅が綻んでいる下で紺色の制服の少女たちが語り合っている姿が可憐だった。

 

博物館を出た後、本来はバスに乗る予定だったのだが、歩いて士林夜市に向かった。

故宮周辺は観光できる場所があまり無いためか、現地の住民らしき人が自転車で通りがかったり、帰宅途中らしき学生がたくさんいた。

それなりに距離はあったはずなのだが、故宮博物館の感想を言いながら歩いたらあっという間にたどり着いた。夜市は台湾に短期留学していた友達に1番おすすめだと言われていたのでワクワクしながら足を踏み入れた。

赤提灯が照らす中、多くの人が食事を楽しんでいた。温かみがあるのにとても幻想的な景色だった。ぼう…と見惚れているのお腹が鳴った。立ち込める食べ物の匂いが食欲を刺激した。

はじめに目についた屋台で台湾ビールと小籠包を買った。

同行者はかつて中国の屋台でお腹を壊した経験があるらしくはじめに少し難しい顔をしていたけれど、一口食べると二個、三個と食べていた。十全排骨という薬膳スープにも挑戦した。独特な匂いで、こういう癖のあるやつはいつか病みつきなりたいなあと思いながら眉を寄せつつ完食した。

唐辛子たっぷりのいかにも辛そうな食べ物にも挑戦したかったがわたしには無理だった。同行者は汗を流しながらも美味しそうに食べていた。少しだけうらめしかった。

買い物をする時、料理名を指差すのと現地の通貨で支払うときは毎回ドキドキしたけれども楽しかった。

ホテルまでは歩きは遠すぎたので電車に乗って最寄り駅まで戻った。終電を確認してみると0時くらいだった。日本とあまり変わりはないようだ。

ホテルに戻り、ベットに寝転んだ。

気を張っていたこともあり、体の力が一気に抜けるようだった。明日は九份に行く予定がある。まだ旅行初日なことが嬉しかった。

電脳九龍城の思い出

廃墟が好きだ。

というか退廃的なものが好きだ。崩れかけの建物とか、建てこわし中のビルとか、よく熟れた果物とか、枯れかけの花とか、割れた白いお皿とか。あと、耽美派

前置きで性癖暴露大会をしてしまったが、そういったものの中で一番好きなのがかつて香港にあった九龍城砦だ。

九龍城砦、元は明治期につくられた城壁が、戦後にイギリス、中国、香港の領土主張が複雑化してできてしまった無法地帯である。

無法ゆえに、多くの人が集まり、建築基準ガバガバの超高層マンション群ができた。

増築を繰り返された街は何階を歩いているのかすら定かでなく、どこに繋がっているのかわからない管があちらこちらに伸びている。日光はわずかにしか届かない。

屋上にはいくつあるのかわからないアンテナがぎっしりとつまり、すれすれを飛行機が飛んでいく。

わたしが九龍城砦を知ったのは高校生の頃、一目見て心を奪われてしまった。そこから崩れかけの危ういバランスの建物が好きになり、廃墟にも心惹かれるようになった。

ただ、わたしがその存在を知ったときには九龍城砦はその姿を消していた。1993年から1994年の間に取り壊し工事が行われたからだ。

そりゃそうだろう、建築法を無視した上にめちゃくちゃに増築しまくった巨大建築物なんて危なすぎて現代社会が見逃すはずがない。

生まれる時代がもう少し早かったならと、気落ちしながらネットで九龍城砦の写真を収集するわたしの目に留まったのがウェアハウス川崎だった。

ウェアハウスはコンセプトを付加したアミューズメントパークを展開しているグループで、川崎店のコンセプトは「電脳九龍城」だった。

 

あるじゃん!!!九龍城砦!!!

 

馬鹿でかい声で叫んでしまった。

雨で赤茶けてしまった外観に、よくわからない中国語の文字が浮き上がる外観はものすごく魅力的だった。しかも、18歳以下立ち入り禁止。

そんなの、高校生の冒険心と浪漫をくすぐらないわけがないじゃない。

内装も写真で見た九龍城砦とよく似ていて、いつか絶対に行くことを心に決めた。

 

その場所に憧れて、18歳になって、高校を卒業した春に友達を連れてはじめて足を踏み入れた。

堅牢な自動ドアをくぐると、広東語の話し声が真っ先に耳に入った。赤色をおびたトタン張の壁。錆びれたエスカレーターに乗って壁を見ると淋病と歯医者のチラシが所狭しと貼られている。

赤いネオンが煌々と街を照らし、上を見上げると薄暗い中洗濯物がひらひらとはためいている。くすんだガラス窓を覗けばランジェリーを身につけたラブドールが眠っている。

アパートのものだろう整列したポストに錆びた扉、出店に吊るされた北京ダック。

異世界」の一言に尽きる場所だった。

18ぽっちの、イオンとドンキに入っているゲームセンターしか知らない小娘にとって、大人しかいないその異世界は妖しい魅力があった。

 

それから、3回ほど足を運んだ。

2回目からはウェアハウス川崎のイベントで脱出ゲームを実施していたため、それに毎回参加した。

脱出ゲームは場所やイベント内容によって制限時間がかなり短いものも多いが、ここの脱出ゲームは時間無制限だった。電脳九龍城を隅から隅まで探検して、3,4時間かけて毎回謎を解いた。毎回知らない場所を知ることができてとても楽しかった。

 

大好きな場所だった。

昨年11月、ウェアハウス川崎は閉店した。正真正銘の廃墟になってしまった。

今はどうなっているのだろう。もう解体されてしまっただろうか。

今はなきウェアハウス川崎、青春にすべりこんでこの場所があったこと、かけがえのない思い出になって大切に心にいつもしまっている。

 

肉筆浮世絵名品展に行ってきた。

 春の吐息を感じさせつつも、北風が吹き荒ぶ2月頭に太田記念美術館40周年記念の肉筆浮世絵名品展に行ってきた。

若者や観光客があふれる原宿駅にほど近い、大通りから路地に入った閑静な場所にこの美術館はある。わたしがこの美術館に出会ったのは2年前。大学の課題で美術館に関する発表をしなければならなくなり、怖い浮世絵展を観に行ったことがきっかけだった。

手拭い専門店、かまわぬを横目に見つつ小さな入口から中に入ると受付はほどほどの人口密度になっていた。チケットを購入し、展示室に入る。

今回の展示会の目玉は歌麿北斎、応為であった。わたしは奥行きの描き方や明暗の美しさで一時ツイッターを騒がせた北斎の娘、応為の『吉原格子先之図』を一目見たいと思い足を運んだ。

展示室は一階と、二階にあり、応為の絵は一階の序盤に飾られていた。想像よりも小さな絵の中で光に照らされた花魁の顔や着物の赤、部屋の中の明かりに照らされた若い衆の様子は幻想的で艶やかで、どこか近代的な美しさを醸し出していた。

解説パネルには北斎美人画に関しては応為に敵わないと語ったと書かれていて、その才能を知るには十分なものだった。少なくとも応為の絵以上に繊細で艶やかな作品はその場にはなかったと思う。

となりにあった北斎の虎の絵も非常に迫力があった。対になっているという龍の後並んだらどんなに見事であろうか。その後、二階に行った際に『羅漢図』を見たがそれも圧倒的なかっこよさがありとても印象的だった。

応為と北斎の迫力ある絵を見た後はゆっくりと他の展示を見て回った。花魁や美人を描いたものが多く、着物の柄や重ね方が洒落ていて美しかった。

花魁、武士の娘、奥方。さまざまな美人の姿とそれぞれに合った着物の着方や色の重ね方は見ていてとても興味深い。

魅力的なものは多かったが個人的には磯田湖竜斎の『雪中美人図』が好きだなと思った。

雪がまばらに残る中、風に煽られる娘の姿は可憐で、舞い上がる水色の着物からちらりと赤い襦袢がのぞくのは着物にしか出せない色気があった。黒い帯をきりりと締めているのも良かった。

最近、西洋のものや近代のものばかり見ていたので江戸時代の浮世絵に触れたことは新鮮な体験だった。

一通り満喫して美術館を後にし、しばらく歩くとオリンピック後に解体予定のJR原宿駅の姿があらわれた。街並みをそっくりそのまま残すことはできないが、絵はそれを可能にするのだろうな。そんなことを思いつつ、大正時代より原宿の玄関口として建っているその駅舎を写真におさめた。

 

 

 

長崎タウンに行ってきた(2日目)

 朝、目覚ましが鳴る1時間前に目が覚めた。

お茶を沸かして、前日に買っておいた福砂屋のカステラを頬張りつつ、日が昇る中走る路面電車の様子をぼんやりと眺めた。底のザラメがとても美味しかった。

ゆっくりと身支度をして忘れ物がないかを確かめてホテルの部屋を出た。チェックアウトの手続きを済ませて塩の香りが混じる川沿いを歩いて目的地に向かう。長崎旅行2日目の朝一の予定は軍艦島のクルージングだった。

わたしは廃墟が好きだ。一番好きな廃墟は今はなき九龍城、そして二番目に好きな廃墟が軍艦島である。 

軍艦島は正式名称は端島。かつては炭鉱で栄えた島である。かつては多くの人々が住んでいたが1974年に閉山し、無人島となった。日本ではじめて鉄筋コンクリートで集合住宅が作られた場所でもある。

退廃と人工的なかっこよさが共存した世界遺産。ずっと行ってみたかった。軍艦島を見るために長崎に来たと言っても過言ではなかった。

胸をときめかせながら軍艦島デジタルミュージアムに向かった。向かう途中で見た、朝日を受けてきらめく海は美しかった。

ミュージアムで受付を済まし、クルーズの時間まで展示を見て時間を過ごした。映像が迫力があってとても良かった。VR体験などもあってリアリティがすごい。台風の影響で軍艦島に立ち入ることができなかったのでデジタルミュージアムで島の中の様子を少しでも実感できたのは良かった。

映像を見ながら元島民の方の話を聞くこともできた。個人的に好きなエピソードは島にあった監獄が酔っ払ったお父さんたちの反省室になっていたこと。

楽しい時間を過ごしている間にあっという間にクルーズの時間がきた。酔い止めも飲み準備万端、意気込んで船に乗り込んだ。

 

その日は普段の船がドッグ入りしていることによって小型船に変更になっていた。ちなみに海はしけであった。

水しぶきでときどき真っ白になる窓、大きく揺れる船、えづく客、歩くこともままならぬ船内。

デッキに出ることもできたが怖くて船内にすぐ戻ってしまった。デッキで摑まることができるものはトイレのドアノブしかなかった。事前に右回りで島を回ると聞いていて、右側の席を確保したのに左回りに急遽変更。曇る窓の向こう側でぼんやりと浮かぶ島と一瞬デッキに出た時に半分見えた姿。その日の軍艦島はさながらパズーの父親が見たラピュタの姿であった。

 

2時間のクルーズを終えて港に戻る。酔わなかったことだけは幸いだった。まあ一生できない経験かもな…と思いながら旧上海銀行長崎支店に向かった。

ここはとても素敵な建物だった。ツイッターにも写真をあげたのだが青い壁と赤い絨毯、白く発光するチューリップの形のランプ、近代の息づきを残したおしゃれで品のある場所だった。展示もハイテクで興味がある人にはとても良さそうだった。当時の上海の流行歌を蓄音機で流せるブースや、写真撮影ができるところもあった。個人的に道路に面した椅子がひとつだけ置いてある小さな部屋が印象に残っている。なんとも優雅ではないか。

お客さんもいなかったのでゆっくり見て周り、写真をパシャパシャ撮った。

その後、オランダ坂で岩崎屋本舗の角煮饅頭を食べた。軍艦島の思い出が少し悲しかったので課金してちょっと高い方のを食べた。トロトロで柔らかくて、味が染みていて美味しかった。

坂を上がっている途中、教会でお葬式の準備がされているのを見た。ああ、ここは長崎なんだ。わたしの家の近所の教会はミサはやっているけれどお葬式をやっているのは見たことがない。かつて葬儀社でアルバイトをしていた時も仏式と創価学会の式ばかりで、キリスト教式の葬儀を間近に感じたのははじめてだった。

坂を上りきった先には堂々たる大浦天主堂がそびえ建っていた。聖母マリア銅像が坂の下に広がる長崎の街を見守っていた。

中に入ると教会特有の、シンシンとした空気に包まれた。今まで見たどの教会よりも立派で厳かな場所だった。ステンドグラスは美しく、天井は芸術的だった。ここは写真撮影が禁止されていたので実際に足を踏み入れなければ見ることができない。

教会でささやかな祈りを捧げ、隣接されているキリスト教博物館に足を踏み入れる。ここでは日本のキリスト教の歴史をよく知ることができた。迫害の歴史は時に胸に刺さる。江戸時代に生きた小さな女の子が「お父様、お母様、先にパライソに向かいます。」と言い残して亡くなっていったという記録がわたしは忘れられない。

義務教育は、天正遣欧少年使節とわずかなキリシタン大名の存在と踏み絵と天草の乱しか教えてくれない。キリスト教の名前と宗派の名前しか教えてくれない。教会という場所で信条や詳しい歴史を知ることができたのはとても勉強になった。

大浦天主堂を出ると日は傾き始めていた。ふたたび新地中華街に戻り、高速バスに乗る。さようなら長崎タウン、はじめての一人旅行がこの街でよかった。

トンネルを抜け、山の景色を眺めながら空港に向かう。

空港にたどり着くと五島列島の名産地獄炊きうどんを食べた。アゴ出汁とねぎと生姜のつけ汁と生卵と醤油と鰹節につけて食べる細めのうどんは美味しかった。

次は天草に行きたい、そして軍艦島にリベンジしたい。その思いを抱えつつ飛行機に乗った。

機体は揺れていたのに、行きよりは墜ちる心配をしなかった。

窓からのぞく地上の光が増えるほど、自分の住む土地に戻ってきている気がした。

ハマスホイとデンマーク絵画展に行ってきた

 冬晴れの空が澄んで見える1月末に上野の東京都美術館で開催されているハマスホイ展に行ってきた。ハマスホイはデンマークの近代画家だ。西洋美術館に展示されている作品を観て以来ずっと気になっていた。

みはしの蜜豆でお腹を膨らませつつ、事前に購入した前売り券を手に都美術館に向かった。

ハマスホイ展の展示フロアは3つあった。1つ目はデンマークの近代の画家の展示、2つ目と3つ目がハマスホイの展示だった。平日だったからだろうか、それとも展示スペースが広かったからか、人はいるもののじっくりと見ることができた。

照明が落とされた部屋の中、水色の壁に冷たい大気と晴れの日の暖かさをわずかに感じられるような自然豊かな北欧の風景画がずらりと並んでいた。油絵がほとんどで絵の前に立つと実際にその風景を見ているような気持ちになった。

素人のため、あまり詳しいことは言えないが、じっくりと見ると色の重ね方が違うことに気がついた。その効果によってだろうか、立つ場所によって絵の中の光の加減が違うことが面白かった。部屋の中にいる人物を描いているようなものは窓から差し込む光と展示品にあたっている光が絶妙に合って逆光や、眩しさを感じることができた。

1つ目のフロアは閑静な風景画の他、漁師や海沿いの町を描いたもの、人物画が展示してあった。空の青、海の青、瞳の青。すべてのものが青くぼんやり発光しているように見えた。

2つ目のフロアからハマスホイの展示が始まった。風景画のほか、屋内にいる妻イーダの姿を多く描いていた。結婚したばかりのイーダの姿、10年後のイーダの姿、その両方を見て年月の重さを感じられたのは良かった。部屋の色や、健康状態によって肌の色艶が違ったこと、服装の雰囲気が年を重ねてもあまり変わっていなかったことは印象的だった。

また、絵画の中に出てきたハマスホイの家で使われていた陶器の入れ物が飾ってあったことに感動した。継いだあとが年季と生活を醸し出していた。

今まで西洋の絵画は宗教画か、明るい色味の緻密でリアルな油絵か、ピカソのような奇抜なもの、あるいは社会批判を含むポップなもののイメージが強かった。ハマスホイを含むデンマークの絵画が落ち着いた色味の、静かで美しいものだったことは新鮮だった。個人的には好きだなと思った。

写真撮影は禁止されていたためポストカードを買って帰った。ミュージアムショップで売られていたカップやバッチ、ピアスなどの装飾品もシンプルでおしゃれだった。

絵画の新しい魅力を発見できてよかった。

いつかデンマークに行きたい。

 

 

 

長崎タウンに行ってきた(1日目)

1月下旬、大学生最後の春休みを目前に長崎タウンに行ってきた。高校のころからずっと軍艦島に行ってみたくて念願の長崎旅行だった。

 

旅程は1泊2日。朝、親戚一同の反対を無視してネットで飛行機とホテルのパックプランを購入したことに文句を言われつつも暖かく見送られて家を出た。まだ日が昇る前の暗い空の下、自転車を漕ぎ、電車を乗り継ぎ、空港にたどり着いた。

保安検査にもたもたしながらも大きなトラブルなく無事に飛行機に乗ることができた。飛行機に乗るのは修学旅行以来2回目。正直、墜落しないか怖くて仕方がなかった。遥か上空から日本列島の一部が見えて日本は本当に島国なんだ…と実感したりした。

墜落はしなかった。約1時間半のフライトを終え、長崎空港に降り立つ。スキップしつつ高速バスのチケットを買い、30分バスに揺られて長崎タウンに向かった。山と緑に囲まれた高速道路を走り、田舎なんだなあと思っているとトンネルに入った。

 トンネルを抜けるとそこは街だった。

後々知ることになるが、長崎タウンは四方を山に囲まれていて真ん中のくぼみになった部分が街になっている。突き当たりは海で、外側からは中が見えないような形をしている。急に現れた市街地は異世界のようだった。

長崎新地に降り立ち、中華街を目指す。目当ては江山楼のちゃんぽんである。

横浜の中華街に比べるとこじんまりとした門をくぐった。春節の前だったからか赤い提灯がたくさんぶら下がっていた。ナビにしたがって歩くと突き当たりに鯉が泳ぐ中華店があった。名前を見るとそこが江山楼だった。

お店に入ると着物に割烹着をきた店員さんが席に案内してくれた。出されたお茶が香り高くて美味しかった。1500円の特上ちゃんぽんを見ながら1000円のちゃんぽんを頼んだ。学生なので。

お店は11時半にも関わらずほどほどにお客さんが入っていた。女一人客はわたしだけでドキドキした。

届いたちゃんぽんはとても美味しかった。

とんこつのようなまったりしたスープ、もちもちの麺、海鮮と豚肉、野菜がたっぷり入っている。今までちゃんぽんをロクに食べなかったことが申し訳なくなった。

腹ごしらえを終えて路面電車の一日乗車券を手に入れたのち、歩いて出島に向かう。徒歩10分もしないくらいの距離にあった。中に入ると鎖国当時の街の風景が蘇っていた。

展示されているものは当時の暮らしを示すものや出土したものの数々。個人的には花や唐草の柄の入った襖、畳の上に置かれたずっしりとした洋風の家具がお洒落で素敵だと思った。こんな部屋に住みたい。

入ってきた時と反対側の出口から出ると路面電車が走っていた。緑とクリーム色の塗装で二両編成。なんと可愛い電車だろうか。

路面電車に飛び乗って、長崎原爆資料館に向かう。地元の人が多く利用しているようだった。しっかりした革の鞄を手に持った素朴な雰囲気の女子高生がたくさん座っていた。

しばらく揺られて路面電車を降りる。急な坂を登ると原爆資料館が姿を表した。

中に入ると筒状の建物にそったスロープを降りるよう言われた。展示室は地下二階であるらしい。壁を見ると等間隔で年号が書かれていた。2010、2005、2000、1995、1990…

1番下まで降りるとそこは1945年だった。時計の音が鳴り響いている。展示室に入ると原爆投下前の長崎の風景写真が展示されていた。よくある戦前の、昭和の風景だ。眺めながら次の展示室に入ると時計の音が消えた。

そこは爆心地だった。

鉄骨は溶けてねじ曲がり、わーんわーんとした音がどこからともなく聞こえる。最奥には表面が溶けたマリア像と今にも崩れ落ちそうな教会の門が静かに街の様子を見下ろしていた。

ディストピア。その形容が浮かんだ。退廃的なものは好きなのに、写真は一枚もとることができなかった。

次の展示室は被害状況のことについてさまざまな情報が展示されていた。長崎は推定総人口24万人のうち原爆によって73884人が死亡、74909人の負傷者を出したとのことだった。半数以上の人が原爆によって被害を受けている。

人の手によってそれほどの死傷者を出すことは平和な現代を生きているわたしにとってはありえない出来事だった。震える手を抑えつつ、死傷者の数が書かれたパネルの写真を撮った。戦争がもたらす感覚の麻痺をはじめて手に感じた気がした。

映像資料では原爆の威力が及んだ範囲が映し出されていた。さっきまでいた場所、これから行く予定の場所、全てが赤く染め上がって行った。トンネルを抜けた先は街だった。その街が原爆投下直後、火の海に変わったことが描かれていた。

 

すべてを見終わった後、記念館で黙祷をして平和記念公園に向かった。公園の中は銅像がたくさんあった。全て追悼のために、平和を祈るために作られたものだった。

有名な平和記念の像は想像の5倍大きかった。ポーズを決めて写真を撮る海外からの観光客を見て、ああ、本当に今は平和な世の中なのだとふと思った。

 

路面電車に乗ってトルコライスを食べるために思案橋に向かった。ツル茶んというお店が発祥らしい。夕刻ゆえ、商店街で買い物をしている人が多くいた。レトロで明るい喫茶店に入り、トルコライスとハーフミルクセーキを頼んだ。

出てきたトルコライスは大皿の上にピラフ、ナポリタン、カツ、カレー、サラダが乗ったボリュームのあるものだった。昼のちゃんぽんがほんの少しお腹に残っていたため少し苦労しつつも完食した。若者的には美味しかった。

そのあと出てきたハーフミルクセーキもハーフ?これでハーフ?と思いつつ食べた。冷たくしゃりしゃりしてて優しいミルクの甘さが美味しかった。これで合わせて1700円はコスパがとても良いな…と思った。

再び路面電車に乗って稲佐山の夜景を見に行った。

途中、行先設定を間違えて薄暗い川沿いをひたすら歩き、全然違う場所にたどり着いて途方に暮れたが、どうにかロープウェイ乗り場にたどり着いた。稲佐山のロープウェイ乗り場は淵神社という神社の中にあった。別の世界に行くための境界だ、と密かに思った。

5分ほどロープウェイに登り山頂に着く。美しい真夜中に星々が絡まったような夜景が広かっていた。昼には焼け野原だった長崎の街は、夜には美しく息づく場所に変わっていた。

景色を堪能し写真を一通り撮りおえて、帰りのロープウェイに乗って神社まで降りる。行先設定が正しい帰り道は非常にスムーズに運んだ。

宿に着くとはじめて一人で寝る夜がさみしくも嬉しかった。