本を読むことが好きだ。どれくらい好きかと言えば大学の進学先に国文学科を選ぶくらいには好きだ。
大人になるにつれて子どもの頃ほどは読まなくなってしまっているが、読書は今でも楽しいし常に何かしらの本は抱えている。
学生の頃はよく図書館や本屋に行ってずらりと並んだ本の背表紙を眺めた。好きな作家の名前を探していることがあれば、素敵な題名を探していることもあった。表紙は必ず見た。表紙が好きな本はだいたい中身も好きな本だったから。
そんな感じで本を借りたり買ったりしているうちに、なんとなく好みの本とかそのときどきに求めている本を見つけるのが上手くなってきた。読書に関する直感が磨かれたような気がする。
大学に入ると月に3,4冊は文学作品を読まざるを得なくなり、自分が好きな本を読む時間はやや減った。近代の作品を読むことは好きだから全然苦ではなかったけれど、背表紙をじっと眺めて本を探す機会はぐんと減った。
大学を卒業して働き出してからの読書生活は、興味のある文学作品半分、好きなジャンルの小説やエッセイ半分くらいの割合になった。学生の頃は全然読まなかったエッセイを読み始めたのが最近の変化である。
先日、手帳を買いに書店に行き、久しぶりに背表紙をじっと眺めた。
わたしにとって本を選ぶ行為は年々難易度が上がっている。好きな作家や好む雰囲気、内容量のこだわりが出てきてしまっているから。昔ほどライトな作品や流行のものを読まなくなった。
本棚は全部好みの本で埋めていたいじゃないか。
手に取ったり戻したり、文庫本のコーナーを三周してやっと購入する本を決めた。
高野秀行著
『辺境メシ〜ヤバそうだから食べてみた〜』
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167915995
本屋で食を求めるゾンビのごとくフラフラとさまよっているとちょっと脳内から貪欲で投げやりな液体が滲み出てくる気がする。
最終的には直感に頼り、手帳と一緒に購入した。
家に帰ってワクワクと開けてみると手帳は鮮やかなビタミンオレンジ、本は辺境で(時に極限状態で)日本では食べない食材を慣れ親しみのない調理方法で食べているエッセイだった。遠回しに最近自分が仕事に疲れていて強靭な生命力を求めていることを感じた。強く生きよう社会人2年目。
本を開き、序文を通り過ぎればゴリラとチンパンジーの肉を焼いて食うところからはじまった。ゾクゾクしてしまう。
アフリカの奥地に暮らす人は槍でゴリラを狩って食べるらしい。ゴリラと槍で相対するのは恐ろしくないのだろうか。なぜゴリラの肉を選んだのだろうか。わたし達がクマの肉を食べるのと近い感覚なのだろうかと矢継ぎ早にふと思った。
この章では、コンゴ人の動物学者が現地の人にゴリラは国際保護動物だから殺して食べてはいけない。と諭した後にゴリラを銃殺したところで笑ってしまった。こういう不謹慎ともとれる笑いが大好きだ。
読み進めていくと、昨今注目されている昆虫食なぞは序の口で、牛の脊髄を食べたり人間の胎盤を餃子にして食べたり、覚醒する草を大量に口に押し込んだりしていた。絶対作者クレイジージャーニーに出てるでしょ。と思ったら本当にクレイジージャーニーに出ていた。
一番好きなのはナガ族の話。知っている人もいるかもしれない。首狩り族として有名である。
ナガ族はいくつかの部族の集まりであるとのことだった。異なる部族の共通点が「首狩り」と「納豆」であると書かれていた。首狩りと納豆横に並ぶことってある?
文章自体は穏やかで楽しそうに終始つづられていた。内容と文章のギャップがとても良かった。
こういうアンダーグランドというか、ちょっとぶっ飛んでるものというか。そういうものが好きだ。自分に飛び込む勇気がないからせめて知識だけでも、という気持ちもあるのかもしれない。
しかしながら、わたしは知らないことをワクワクしながら読んでいるが、わたしが知らないことは世界の裏側に住む人々にとっては常識だったりするわけで、なんだか途方に暮れてしまう。
世界って広い。世界に飛び込める人って本当にすごい。
食べる勇気が出ないものが大半ではあったが覚悟を持ってフグの卵巣の糠漬けはいつか食べてみたいと思う。フグの卵巣、生で食べると人間を30人殺せるらしい。ゾクゾクしてしまう。