「美味」という言葉を文字の通りに受け取るとするならば、わたしが今日飲んだダージリンティーは寸分違わずそれだった。
コロナ騒動がひと段落した6月上旬、わたしの仕事は未だにはじまらない。家に引きこもりきりの生活もそろそろ2ヶ月を過ぎた。
家にずっといるのもほとほと疲れてきたし、来週からは本格的に仕事が始まる。思い切って前々から気になっていた町に出かけることにした。
ラッシュを過ぎた昼頃、人が少ない電車に乗って1時間、品と下町の情緒を兼ね備えた商店街に降り立った。
5分ほど歩いて、事前に調べて目をつけていた雑貨店を見つけた。スタンドランプとクッションカバー、化粧ポーチを買い求めた。
想像以上に素敵だったそれらを胸に抱えて、満ち足りた心持ちで商店街をぶらぶらと散歩した。せっかくなので軽めのランチかお茶でもして帰ろうと思った。
初夏の爽やかな空気を感じながら、上機嫌に弾む歩みのために深みのあるブルーに白い小花が散ったシャツの裾がはためくのが心地よかった。
商店街の中には、直感がこれという喫茶店は見当たらなかった。しばらく歩くと商店街を抜けた。
少し電車に乗って、乗り換えのあたりでなにか探そうか。そう思いながら通りを歩く道中、異国への入り口のような扉が現れた。
その扉の両端には金色のインド像の置物が守神のように二つ置かれていた。ここが良い。と直感が告げたがハードルが高く通り過ぎた。
後ろ髪を引かれながら駅に向かってしばらく歩いたが、一歩歩くたびに髪の毛はぐんぐん引っ張られている。ええい、ままよ!
来た道を戻り、再びその扉の前に立った。
1人きり、何かに背中を押されて扉を開けた。絵が飾られた壁を横目に、大きな鏡が置かれた階段を登る。階段を登りきると、柔らかな明るさをたたえた空間に、インドの女神ドゥルガーを背負ったコック帽のインド人が立っていた。
「お一人ですか?」
そう問われて1人だと答えると中に通された。
店内は窓からさす日光で柔らかく照らされていた。天井は高く、バザールのごとくカラフルな布で覆われている。
柱からはカラフルなランプが吊り下げられ、壁にはオアシスが背景に描かれた人物画が飾られていた。
唐草が彫られた椅子とテーブル、刺繍が施されたソファとクッションがバランス良く配置され、テーブルの上に置かれた真鍮の花瓶には生花が生けられていた。
店内にはわたししか居なかった。
案内された席に着くとガネーシャ像とマンダリンが目に入った。テーブルに目を落とすと、ガラスの下で鹿が踊っていた。
メニューの中からチキンカレーとナン、チャイを頼む。
頼んだ料理ができあがるまで、店内を見渡した。置かれている調度品は数えきれないほどの色を持ちながらも絶妙なバランスを保ち、完璧な美しさを醸し出していた。顔を横に向けると椅子の中に嵌め込まれた小さな絵画と目があった。
しばらくすると頼んだものが銀の食器に盛られて運ばれた。店員さんが親切に食べ方を教えてくれた。
「これ、カライ。」
「これ、パリパリ。」
カレーはさほど辛くはなく食べやすかった。ナンもしっとりとしたバターが効いていた。
食後のチャイは風味をしっかり残しつつも癖があまりなくて美味しかった。お腹も心もほどよく満たされた。
お会計を済まそうと鞄から財布を出すと店員さんがこちらに向かって歩いてきた。
「ダージリン、サービス。」
金色のお盆に金属の茶器が乗せられて運ばれてきた。中に入っているのはダージリンティーだった。
目の前に置かれた白い陶器のカップには木苺があしらわれている。
丁寧に飲み方を教えられ、教えられた通りに赤く透き通った飲み物を注ぎ入れた。その時、金属の茶器のずっしりとした重さをはじめて知った。
一口含むと、舌の上に深い香りと味わいが広かった。それは肩の力がゆっくりと抜けるほど美味しかった。
調度品と柔らかなクッションに包まれながら味わい深い紅茶を楽しんだ。
帰り際、撮った写真をツイッターに載せて良いか店員さんに確認をした。了承を得たが、帰りの電車に乗った時にその気持ちはさっぱり消え失せてしまった。
小さい頃、自分の目に宝物に映ったものはきっと人目につかぬように大切にしていた。あまりにも贅沢な時間を過ごしたために、むやみやたらにそのお店のことを人に言うのが嫌になってしまったのだった。
これまでの人生で出会った嫌なことが全部帳消しになるくらい美味しいダージリンティーだった。
電車に揺られながらふとそう思った。