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行った場所の記録

犬山城に行ってきた

お正月の、寒いけれど暖かい空気が満ちる日に犬山城に行ってきた。

小さい頃犬山モンキーパークにはよく連れて行ってもらったけれど犬山城に足を踏み入れるのははじめてだった。成田山の初詣渋滞に巻き込まれながらなんとか駐車場を見つけて20分ほど歩いて向かう。

城下町の雰囲気を残しつつ、観光地らしく食べ歩きのお店が立ち並ぶ。たこ焼きや団子に混ざって五平餅や飛騨牛の肉寿司、飛騨牛コロッケ、飛騨牛の串焼き…と隣県岐阜の名産品が売られている。

帰り道に飛騨牛の肉寿司を食べたが、A5ランクの飛騨牛を使っているということもあってとても美味しかった。値段は二貫で600円と高いが幸福感で心が満たされるので買う価値はあると思う。

通りを抜け、神社の参道を横切り、坂を登る。この坂、あまり舗装が行き届いておらずぼこぼこしていた。お孫さんと犬山城を参観しにきたのであろうおじいさんが頑張ってベビーカーを押して登っているのが微笑ましかった。

入場料を払い、城の敷地内に入る。

巨大ではないが堂々たる犬山城、もとい白帝城の姿が現れた。白帝城という別称は江戸時代の儒者荻生徂徠漢詩から名付けたらしい。

わたしは城のことは詳しくないが端正で風格ある姿であるなと感じた。あんまりペカペカした感じがなくて、ずっしりしている。

天守閣への入場待ち時間は20分。並んで待つ。前後から強めの尾張弁が聞こえており、とても愛知県に来た感じがした。

順番が回ってきて靴を脱ぐ用の袋を渡された。帰る時に気がついたのだがスリッパの貸し出しもしていた。靴を脱ぎ、いよいよ城の中に入る。

かつて、名古屋城に一度行ったことがあった。

その時は大奥や時代劇で見るような中身をイメージして行ったら、江戸時代の街中を再現したジオラマ天守閣に作られたお土産コーナーが待ち受けていて悲しくなってしまった。今回の犬山城観光は城リベンジである。中身はいかに。

玄関口?は石垣が剥き出しの状態で現れた。傾斜目算80度の階段がかかっている。とりあえず、そこでジオラマは無い直感を得られたので良かった。手すりに頼りつつ階段を登る。

城内は4階建てで、お城の建築様式の説明がありつつ、お城に使われている鬼瓦、当時の甲冑や合戦の記録が描かれた屏風の展示、城の模型が飾られていた。江戸時代の城番付、石高のランキングが書かれた資料もあった。

ひんやりとした板敷の床をふみながらそれらを見る。内装とかも極力当時の雰囲気を残したものなのだろうな、という感じが伝わった。途中、籠城する時に城主が過ごす間が出てきたのがよかった。

一通り見終わっていよいよ天守閣に登る。

犬山城では天守閣の周りを囲うベランダのようなところを歩くことができる。先ほど歩いた城下町とその反対側にある木曽川と山々を眺めることができる。遠いが現実感をきちんと得られる距離感で非常に綺麗だった。一緒に行った家族曰く、川の向こうは岐阜県らしい。権力を持つ人が高いところに住む気持ちが少しだけ分かった。

城から出て、外にある売店で味噌まんじゅうを購入して飛騨牛肉寿司を食べて帰路に着いた。

 

犬山城に行くことを検討している人は軽装かつズボンで行くこと、靴下を履いていくことをお勧めする。(スリッパは脱げる可能性があるためやめた方が良い。)

城リベンジできて良かった。

 

(ネタバレ注意)映画すみっこぐらしを観てきた

冷たい風が吹く12月某日、映画すみっこぐらしを観てきた。

クレジットカードを持っていないために、上映時間2時間前に映画館に行く。平日の昼間にも関わらず残席1、奇遇にも1番すみっこの席が控えめに空いていた。

ウィンドウショッピングや、本屋の冷やかしをしつつ2時間の時間を潰し、いよいよ上映時間がやってきた。前情報で攻殻機動隊、ジョーカーより鬱など迫力のある字面がツイッターで並んでいたが、如何に。

 

結論から言うと、泣いた。最後の10分あちこちからすすり泣きの声が聞こえていた。かく言うわたしも例に漏れず。ウォータープルーフのマスカラをしてきてはいけなかった…観終わったあとにめちゃくちゃ化粧直した。

個人的な感想としては、多面的なメッセージというか、いろんな解釈ができる結末だったと思う。攻殻機動隊もジョーカーも未修なのでわからないけれど、人によっては鬱と捉えられる面も確かにあった。と思う。

映画の簡単なあらすじとしては、すみっこが好きなキャラクターたちが昔話が書かれている絵本にすいこまれて、絵本の中に住むひよこ?(謎の幼鳥)の居場所を探す話。すみっこたちの説明が序盤にされるのですみっこ初心者にも優しい。たくさんの人に観て欲しいと思えた映画だった。

ちなみに、個人的に1番好きなすみっこはざっそう。ポジティブな草すき。

 

以下、結末というか、壮大なネタバレを含む感想、考察になるのでネタバレダメな人や今後少しでも観に行く可能性がある人は絶対に見ないで欲しいです。絶対に、絶対に。フリとかではなく本気で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

個人的に、はじめにぺんぎん?に仲良しのすみっこがいないことに少し違和感はあった。

しろくまにはふろしき、ねこにはざっそう、とかげにはにせつむり、とんかつにはエビフライのしっぽ。タピオカとほこりは群れでいるのでこの場合はカウントしないとして、ぺんぎん?は一人で本を読んでいたり、クレーンに世話を焼かれている感じがしたり。わりと孤独感強めな感じがした。ぺんぎん?とひよこ?が仲良しになることの伏線だったんだと思う。ぺんぎん?が自分探しをしている自らとひよこ?を結びつけたシーンは本当にかわいかった。あたまなでたくなった。

中盤、絵本の世界ですみっこたちはバラバラに飛ばされてしまう。ねこは桃太郎に、しろくまはマッチ売りの少女に、とかげは人魚姫に、とんかつは赤頭巾に、ぺんぎん?はアラビアンナイトに。ここらへんも昔話とすみっこを関連付けて考えると臆病なねこを鬼と対峙させるところや、寒さが苦手なしろくまに極寒の中マッチを売らせる、自らの身を偽っているとかげに種目違いの男に恋をする人魚姫を役をさせる、食べて欲しいとんかつに赤頭巾の役割をあてがう、本来は孤独を抱えた人間不信の王様の寝物語である冒険譚アラビアンナイトを自分探し中で河童の疑惑が強いぺんぎん?が読んでいたことや、役割を与えられたこと、それぞれが絶妙にマッチしているな…と感じた。しろくまが物語の世界を脱出するところやねこが鬼を退治せずに仲良くなるところ、とんかつが結局食べられないところはそれぞれらしさが滲んでいて良かったな、と思う。

それぞれが物語の中で奮闘する中、ひよこ?はしろくまがいる赤頭巾の世界に飛ばされる。赤頭巾の世界をしろくまと共に脱出してすみっこたちと合流していく。

終盤、ひよこ?がみにくいアヒルの子ではないかと考えたすみっこたちはひよこ?を白鳥の群れのもとに連れて行くが、ひよこ?はみにくいアヒルの子ではなかったことが判明する。

居場所が見つからないひよこ?は物語の登場人物ではなく、絵本の余白に落書きされたものであったことが明かされる。

居場所がないひよこ?だけれどまだすみっこたちの仲間になる可能性がその時点ではわたしの中にはあった。というか、多分そうなるだろうと思っていた。

ねこがページを破いてしまった影響で絵本の世界の境目はあいまいになっていく。その中ですみっこたちは自分たちがもといた世界と絵本の世界の破れ目を見つける。ひとりひとり、外の世界にもどっていくすみっこたち。ぺんぎん?はひよこ?に一緒に外の世界に行くことを提案するが絵本に描かれたひよこ?は外に出ることができない。わたしはここで一度涙腺が崩壊してしまった。絵本の世界に居場所がないひよこ?から外の世界という選択肢まで奪ってしまうことはあまりにも現実的で、その中でひよこ?に手を伸ばし続けるぺんぎん?の姿が優しくて切なかった。

結局、ひよこ?は外の世界に出られず絵本の世界にとどまることになる。もうここで、わたしは顔を覆い、劇場の子供たちは不安げな声をあげていた。

ただ、そんな中すみっこたちは自分たちができる最善のことを考えて行動した。ひよこ?が描かれた余白のまわりに自分たちをモチーフにしたひよこを描いた。その姿を観た時に大きな感情で押しつぶされた。

精一杯、現実に向き合ってひよこ?のことを考えるすみっこたちの姿はあまりに切実だった。

ひよこ?と同じ空間にいられない。そしたら、どうする?という先が描かれたことがこの映画の1番の希望で光だった。

ただ、その反面、すみっこたちとひよこ?の間にはどうしようもなく超えられない壁があって、すみっこたちとひよこ?が本当の意味で再会することはないのかもしれないという現実が考えられてとても切ない気持ちにもなった。

それでも、エンドロールで互いのことを想い合うすみっこたちとひよこ?の姿はかけがいのないものに違いなかった。

すみっこをマスコットとしてみるか、ひよこ?に自己を投影してみるか、はたまたすみっこたちに自己投影をするか。単純にストーリーを追うか。さまざまな見方とたくさんの解釈があるのではないかと思った。個人的には、こんな短い時間の、こども向けといっても過言ではない映画でいろいろな面を観せられるとは思っていなかったため、感情がバカデカくなってしまった。

大人にもこどもにも、たくさんの人に観て欲しいと思えた映画を観れて本当に良かったです。

塩田千春展に行ってきた

気温が安定しない2019年秋。秋服が辛うじて着られるようになった日に塩田千春展に行ってきた。

場所は六本木、森美術館。以前行ったトルコ至宝展での教訓を踏まえ、普段着の中でも1番可愛くて品の良いワンピースを着て六本木駅に降り立った。

Twitterで展示会の様子を撮った写真のみ見ただけで、前情報はほとんどなしで訪れた。塩田千春さんはドイツで主に活躍するアーティストらしい。また、そのためか観に来ていた人たちの国際色が豊かだった。

前売り券を見せて中に入る。

会場はエスカレーターを上がった場所にあった。エスカレーターを上がるときに繊細なオブジェが天井から吊り下がっていた。冬の雪を被った針葉樹の枝のようなそれは静謐で美しかった。

そのオブジェを潜り、会場に入る。数枚の絵と小さな金色のオブジェを見たあと、赤が視界を埋めた。赤い糸が蜘蛛の巣が幾重にも絡まりあったような様相で小ぶりな船から波のように飛び出していた。SNSでよく見た空間だった、フォトジェニックなそれだと思っていたが実際に見た印象は全く違った。

その作品を見て私はノアの方舟を連想した。神々が、多くなりすぎた生き物たちを波に飲ませたその後を。なぜそんな連想をしたのだろうか。その答えはすぐあとのブースにあった。

塩田千春さんは生と死を意識し、作品を作っているとのことだった。そう語られた部屋の黒い壁に飾られた写真の鮮烈な赤、骨の白、映像の中で白と黒で表された人肌と泥。現代では宗教的観念、儀式などによってオブラートに包まれているはずの生と死があまりに剥き出しにそこには映し出されていた。恐怖と不快感を抱きつつも、鮮烈な印象から目を離しきれずに進んだ。

そこを抜け切ると子供が好む玩具を糸で結びつけた作品が現れた。正直ほっとした。人と人との繋がりを表しているらしいそれは、固まった心持ちをほぐすには十分だった。

ほっとしたのも束の間、次に現れたのは黒い糸と焼け焦げたピアノと椅子だった。黒煙と無常感。再び生と死に直面した。抜けた後に現れた白い窓枠を組み合わせたモチーフも、昔行った廃墟展をどこか連想させた。

ここまでのブースは写真撮影可能であったが、この後は撮影禁止のブースに入る。

塩田千春さんが手掛けた舞台芸術が紹介されていた。舞台展開をどのようにしていたのか気になった。映像が流れていたので見てみる。

以前、シュールレアリスムの映画で「アンダルシアの犬」というものを観た。たしかサルバドール・ダリが関わっていたような気がする。どこかそれを連想した。印象に強く残る一方で言語化が非常に難しい。実際に見てもらうのが1番だろう。混沌とした中、次のブースに行く。

そこには、大量のスーツケースがぶら下がっていた。いくつかカタカタと動いていて驚いた。耳を凝らすと、どうやらモーターが入っており、動くよう工夫されているらしい。空中階段のようなそれらもまた何かしらの「繋がり」を感じさせた。

全体を観た印象として抱いたのは、「正気ではない世界」と「血脈」だった。美術よりも文学に明るい人間なので戦時中の自然主義の雰囲気を持った小説に近い印象を抱いた。

あまりに剥き出しな生死観は人によっては不安と動揺を与えそうだ。

またその一方で、スーツケースや玩具などある種の温もりを感じるようなものもあり、非常に人間的であるようにも感じた。

鮮やかな写真に惹かれて行ったが見事に予想を裏切られた、強烈な印象を与えられた展示会だった。

文学とビールー鴎外と楽しむ麦酒の話に行ってきた。

友人に誘われて、千駄木にある森鴎外記念館に行ってきた。小雨が降る中、古い感じの建物かしらと思いながら行ってみたが、こじんまりとした、わりと新しい綺麗な記念館だった。

白山から歩いて向かった。お寺が多くてどこか静けさと昭和の息遣いが聞こえるような街並みだった。あらためて今度散歩してみたいと思う。

友人と合流して中に入る。はじめに常設展を観に行く。鴎外の生涯について説明されているパネルを順番にたどっていく。

時折、自筆原稿のデータを写しているタッチパネルがあってとても良かった。鴎外の原稿は私でも字を追えるくらい読みやすい字で書かれていた。生涯を追った展示の最後には「森林太郎として死にたい。」と書かれた有名な遺書も見ることができた。

個人的に良かったのは、鴎外と文豪たちとの文通の記録だ。鴎外は非常に面倒見が良い性格をしていたことは何となく知っていたので文豪たちが親しみを持った、時には冗談を洒落を交えた手紙を鴎外に送っているのをみて胸がほかほかと暖かくなった。写真が取れなかったこともあり、あまり記録してこなかったのが悔やまれる。今度はきちんとメモ用紙を持っていこう。

友人は鴎外の子供達の名前をじっと見ていた。長女の茉莉の名前が可愛いと言っていた。

常設展を見終わったあと、特別展に移動する。

日本におけるビールの歴史や、その歴史に合わせてビールが登場する小説の文の引用があって文学館らしい演出だなと感じた。太宰のカフェで頬杖ついてる写真が表紙の雑誌も展示されていて『人間失格』が映画でやっているから…?と勘ぐったり。

森鴎外とビールについてのスペースもあった。

鴎外がドイツ留学中、ビールと利尿作用に関する研究の被験体にされてたり、ドイツ人はビール20杯飲む人もいるのに自分はビール3杯が限界だと日記に書いてたり、父親に飲酒もほどほどにと手紙で諭されてたりしていた。

鴎外に対してスーパーエリート超人というイメージが個人的にあるので、ビールがあんまり飲めないと日記に書き残しているのはなんだか可愛くてきゅんとしてしまった。

展示を見終わってから館内ショップに立ち寄ると鴎外の作品の表紙の柄のクリアファイルがたくさん売っていた。とてもお洒落で可愛かったので『即興詩人・上』柄のものを買った。

手ぬぐいや、期間限定で鴎外の故郷石川県で作ったビールを売っていた。

10月から鴎外と永井荷風の展示がはじまるようなのでまた近々行きたいと思う。

なかなかファンキーな感じの鴎外の缶バッチ、心惹かれているので今度また、買いたいな。

 

新大久保に行ってきた

タピオカ、アリランホットドッグ。韓流アイドル。韓国コスメ。今の若者の流行をぎゅっと凝縮したような街。新大久保に行ってきた。

前々から行ってみたいとは思っていた。若者文化に触れたい、コリアンタウンを見てみたい、キムチとチーズを食べたいという思いを抱えつつ半日ほど散歩をしてきた。

新宿から思いのほか近いことに驚きつつ、歩いて向かってみると想像よりはこじんまりした通りがあった。一歩外れると閑静な住宅街が現れて驚いた。さて、楽しむぞ!と意気込んだものの、K-POPやコスメ、タピオカに疎いわたしは即座に特にどこにも立ち寄ることのない散歩マシーンと化した。アイドルとコスメが混在する空間には足を踏み入れられず、タピオカを買うこともせずストイックな歩行を続ける中、ソウル市場にたどり着いた。

ソウル市場、端的に言えばカルディコーヒーの韓国限定版だろうか。キムチの種類がとても豊富なところと、韓国料理のお惣菜をおばちゃん達が作っている過程を至近距離で見られるところが良かった。

一通り商品を見て、キムチの試食をした後、キムチチーズのホットクを食べた。金髪におしゃれなメガネをかけたお兄さんが油をひきつつ焼いてくれた。ホットクって結構油使うんだね。

一緒に行った人と半分こして食べたホットクはとても美味しかった。なんなら一個食べたかった。(今思い返せば、夜に控えているご飯のことを考えると一個は軽めの地獄になったのだが)チーズが二種類入っててとろとろだし、キムチは美味しいし、生地もしっとりもちもちで美味しかった。個人的にアリランドッグよりも美味しいと思った。にこにこしながら時計を見ると時刻は17時。予約をしている夕飯の時間は19時。韓国のものを扱っている通りはを一通り見てしまった。空を仰いだ時に目に入ったのが窓の構造が面白い巨大建築だった。

行く?行ってみようか。

脇道にそれると閑静な住宅街。おしゃれな戸建がずらりと並ぶ。おしゃれに家を建てることによる弊害はないのか、家賃はいくらなのか。そんな都会にコンプレックスを少しだけ抱く郊外民のような会話をしてて建物を目指すこと20分。

 「早稲田大学西早稲田キャンパス」

学部を見ると理系の学部がずらりと並んでいた。鉄筋コンクリートに広い敷地。常日頃ビルディングキャンパスで生活をしているのでこういうザ・大学を見るとドキドキしてしまう。しかも、理系の学部、ど文系で理系科目にコンプレックスがあるのでドキドキしすぎて毛穴からよくわからない汗を吹き出してしまう。ひっそりと少しだけ散歩をさせていただいた。

その後、早稲田大学の隣にあった公園で逆上がりをしたり健康遊具で遊びつつふたたび新大久保まで歩いて戻った。夕飯の時間まではまだ少しあったのでたまたま見つけたコーヒーショップに入った。青い内装が素敵なお店で店員さんの眼鏡がお洒落だった。静かな店内の中、韓国語の会話がときどき聞こえてきてその日一番異国な感じがした。

酸味のあるコーヒーを飲み終わり、夕飯を食べる予定のお店に向かう。紫色の髪のお姉さまが案内をしてくれた。オススメのお酒を聞いたらマッコリをカシスで割ったお酒を勧められたがメニューに無くて、なんだかとても良かった。テーブルに小皿が10個にチヂミ、チーズダッカルビ、トッポギ、サムギョプサルが並ぶ。壮観だった。2人でコースを予約してしまったこともあり大量に目に映る。とても美味しかったが実際多かった。二時間目一杯使いどうにか食べきり夜の新大久保を歩く。今日も今日とて楽しかったなと思う。そのまま歩いて新宿に向かった。歩き過ぎでは?

 

杉浦非水展に行ってきた

令和一発目の誕生日は実習2日目に決まった。今年の誕生日のお祝いは全て前倒しで行われて今現在、わたしの手元には5月28日という日にちしか残っていない。

大学生活の一大イベントかもしれない3週間が不安すぎて正気と発狂を繰り返し繰り返し、とりあえず前々から行きたかった杉浦非水展に滑り込みで行ってきた。

ところで、わたしは大正時代が一番好きだ。それ故に近現代文学ゼミナールを選んだところはちょっとある。以前、それが興じて行ったモボモガ展が最高だったのだけれどそこで知った画家が杉浦非水だった。

雑誌の装丁や、ポスターを手がけた画家。明治時代、西洋美術で名を成した黒田清輝の弟子らしい。解説を見てから展示室に入って地面に貼ってある進行方向の矢印ステッカーがまず良かった。

はじめのブースは花や虫、貝の模写。個人的には貝が鮮やかで色っぽくて好きだった。このブースには非水が持っていた映像が上映されていて藤田広嗣のパリへの出港の様子が流れていた。

次のブースは宣伝看板の原画とポストカードが並んでいた。個人的に好きなのはヤマサ醤油の宣伝の看板の原画だった。赤と青と黄色の三色がレトロにポップに使われている。こんなワンピースが欲しいなと思った。醤油自体は茶色一色、渋い感じのポスターになってもおかしくはなさそうなのに。一緒に行った知人が日立電気冷蔵庫の宣伝(シロクマが描かれている)に心惹かれていた。青と黄色とオレンジで書かれたそれは冷たさと電力の両方が伝わってくるようだった。

ポストカードのほうでは白い鶏とその影だろうか、黒い鶏との喧嘩の様子を赤と黒と白の三色でくっきりと描かれたものが印象的だった。4枚で一組、かっこよくて洒落た鮮やかなポストカード。どのカードも看板も過度に多くの色は使わずどの色も際立っているのがとても見事だった。

その近くのブースでは雑誌の表紙も多く飾られていた。この展示に限った話ではないが大正時代のフォントは同じものが一つとしてないような気がする。雑誌三越の歴代の表紙がずらりと並んでいたけれどフォントの統一はなされておらず「三」が傾いているもの、太字になっているもの縦書きの草書体で書かれたもの、右から読むもの、左から読むもの…最近は明朝やゴシックなど名前のついたフォントが基本になっているが大正時代はそういったものがあったのかなかったのかふと思った。

展示していたのはワンフロアだった。1時間半ほどで一通り見終わって一緒に見にいった人と感想を言い合った。彼は構図や用いられた画材について話しているのに対してわたしは色の使い方、こんな着物やワンピースがあったらいいのに。ということを話していることに気がついた。

大学に入ってから美術展に行くことは時々あったが絵の奥深さや芸術についてはよくわからないことが多かった。彼と感想を言い合う中でわたしはお洒落なものであるかどうか。という観点で絵を見ているのだろうなと思った。

美術的な観点でも、文化的な観点でも、ファッションの観点でも、見ることができる杉浦非水展。自分の気づきも含めてギリギリでも行けてとても良かったなと思う。

トルコ展に行ってきた

国立新美術館でやっていたトルコ至宝展に行ってきた。

先日、横浜に行った際に寄ったトルコ雑貨のお店が素敵だったことがきっかけだった。きらきらしたランプや食器、小物に惹かれたのは小さい頃おもちゃの指輪に憧れを持ったことを思い出させた。

場所は六本木駅。街並みも、歩く人もお洒落な人ばかりだった。ラフな格好をしている人はみんな小型犬を散歩させていた。

着替えるときに迷ったパーカーとブルゾン、ワンピースとトレンチコート。後者を選んで良かった。

新美術館はとても大きな美術館だった。あと、職員さんがみんな綺麗なお姉さんだった。エゴンシーレとクリムトの展示会が行われていてとても人気だった。今度はこちらを見よう。

チケットを購入して中に入ると広くて明るかった。長芋を半分に切ってひっくり返したような形の大きな柱の上に喫茶スペースがあったりした。ラピュタみたい。

トルコ至宝展のブースに向かい、入る。

はじめにトルコの歴史についての5分ほどのムービーを観た。イスラム教徒が多い国でヨーロッパと西アジアの境目に位置していてEUになかなか入れてもらえないということは知っていた。映像を観ていく中で不思議な感覚になった。西洋風の白い王宮、ただ、門に書かれているのはイスラムの言葉。あと、門をくぐる際には馬を降りなければならないとのこと。日本にもこういうのはあるなと思った。

映像を観終わっていよいよ展示品を見に行く、はじめに見たのはターバンの飾りだった。

すごい。ダイアモンド、ルビー、真珠、金。対して宝飾に詳しくない人でも知ってる宝石がゴロゴロ付いている。その後に金で作られた兜や、柄がエメラルドの短剣を見たし、手のひらほどの宝石がついた飾りもたくさんあった。また、そういった装飾品にはトルコの文字(トゥルクというらしい)で何か刻まれていた。宗教的な意味の言葉なのだろうか。

もしここに強盗でも入ったらとんでもない被害総額になるのだろうなと思ってぞっとしたりなんかもした。

同じブースで王が着ていたらしい服も見た。チャイナ服に似たカフタンという名前の服だった。ズボンがかなりゆったりとしているのが印象的だった。宗教儀式に使う用の服なども展示されいた。こういった布の展示品の中にはお祈りに使う絨毯のようなものも展示品されていたがチューリップの模様が描かれているものがいくつかあった。

トルコにおいてチューリップは重要な花のようで、あちらこちらにチューリップが描かれたものがあった。個人的にはチューリップというにはやや細長いそうな蕾ような印象を受けた。また、チューリップ意外にも色とりどりの花が描かれていて全体的に華やかで愛らしい感じのするものが多かった。

また、印象的だったのは中国産の皿に宝石をくっつけていたこと。渋い茶碗に宝石がくっついているのはカルチャーショックを受けた。こういった装飾技術が発展したというような説明が書いてあったけれどそういった方向性の文化混合はヨーロッパとアジアの境に位置するトルコならではなのかなと思った。

宝飾、文化混合、チューリップ。

ヨーロッパとアジアが混ざり合った展示品はどれも美しかったなと思う。全てを見終わって外に出た時ふと贅を尽くすってこういうことなのだろうかと思った。