社会人になって1ヶ月が経った。
はじめは距離感のあった同僚たちとの会話も敬語が抜けて、以前より慣れた空気が漂っている。
もちろん、なかなか慣れない仕事や朝起きることがしんどいこともあるけれど、社会人の実感もじわじわと沸いてきた。早くも、大学生だった日々が過去のものになりつつある。
いろいろありつつ、四苦八苦しながら新生活を過ごしているうちに、あっという間に初任給を手にする日がやってきた。
給料日、仕事帰りにまだ一度も使っていないピカピカのキャッシュカードでお金を下ろした。今思い返すと、無機質な画面に映る貯金残高があれほど輝いて見えたことはなかった。
大学生のころにしていたアルバイトは頑張っても10万円が限界だった。正社員になった今、口座に振り込まれるのはそれのほぼ倍の金額である。労働万歳!
生活費の他に1万5000円を下ろして、わたしは都営浅草線に飛び乗った。臙脂とクリーム色をした都営浅草線の電車はなんであんなに可愛い見た目をしているんだろう。
初任給のはじめての使い方はあらかじめ決めていた。それは老舗のバーでお酒を飲むというものだった。
わたしは大学生の頃からのバーに密かに憧れを抱いていた。いかんせん酒呑みである。
しかし、大学生の若造である身分とチャージ1000円越えの壁が厚くてどうしても行けなかった。大学生が老舗のバーなんてどう考えたって生意気じゃん。バーは300円均一のムーンウォークが関の山だった。
でも、今のわたしは初任給を手にしたことで気が大きくなっている無謀な新米OLだ。黒いベストに蝶ネクタイを締め、髪をオールバックに撫でつけたジェントルマンがぼんやりした照明の下で謎の小さい樽をしゃかしゃかしてお酒を作ってくれる空間に飛び込むことにした。
駅に降り立つと、アイフォンのマップアプリを稼働させて目当てのバーの場所を検索した。
これから行くバーはどこにするかは決めていた。
初任給でどこのバーに行こうか調べていたときに、ふと「五色の酒」のことを思い出した。
五色の酒というのは、大正時代の結社「青鞜」(原始女性は太陽であった。で有名な女性誌)の一員であった尾竹紅吉(大正時代版男装の麗人。平塚雷鳥と百合関係であったことが有名)が東京にはじめて出来たカフェ「鴻乃巣」で振る舞われたカクテルである。当時、喫茶店やカフェはアルコールが振るまわれることが普通の店であった。
大正時代のカフェで振る舞われた鮮やかなカクテルなんて、これ以上に最高なお酒はない。
わたしは仕事の休憩時間にネット、ツイッター、インスタ等の情報ツールをフル活用して五色の酒が飲める場所を探した。一週間の格闘の末に日本橋小網町で五色の酒を提供しているバーがあることを知った。
目印が乏しい目的地に奮闘すること20分、ついに目当てのバーにたどり着いた。
地下へと続く階段の先は見えない。ドキドキしながら一つずつ階段を降りた。尾竹紅吉にリスペクトをはらい、今日のわたしはパンツスーツだ。
中が窺えないタイプの扉を恐る恐るゆっくりと開けた。深い茶色をしたバーカウンターと机、壁に掛かったいくつかの絵画が真っ先に目に入った。
店内に人は多くないようだった。
「お一人様ですか?」
ロマンスグレーの髪を撫でつけたバーテンダーの方が声をかけてくれた。
今思い返せば、一人です。と答えた声が裏返っていないことを祈るばかりである。
カウンターに通された後、メニューを渡された。上からカタカナのカクテルの名前を眺めるているうちに、五色の酒、という名前を見つけて胸が高まった。チョイスが合っているのか自信はないが、五色の酒とオリーブ、ラスクを頼んだ。
入ったときには緊張したけれど、しばらくすると落ち着いた心待ちになってきた。喫茶店に似た雰囲気だったからかもしれない。小さい頃から祖父母によく老舗の喫茶店に連れて行かれたので、わたしはこういう場所への耐性がわりとある。
壁際にある本棚を眺めると近代の作家の名前が並んでいた。聞き覚えのある範囲だと小山内薫、北原白秋、木下杢太郎、高村光太郎、上田敏、永井荷風、谷崎潤一郎…。
途中でハッと気がついた。明治時代にあった文芸と美術の懇談会、パンの会に所属していた作家たちの名前だった。
目を輝かせているうちに、バーテンダーの方がわたしの前にそっとカクテルを置いてくれた。
下から茶、緑、白、青、赤。
赤いストローがさしてあった。それをそっと咥えて飲んでみた。
1番下の茶色はウィスキーのようだった。
本当は写真を撮りたかったが、聞くのが憚られた。オリーブをつまみながら嗜んだ。
一段ずつ飲んでいくと、緑は爽やかなミントの味がした。白はジン…?舌に鋭い何かが刺さってピリリとした。青と赤は甘い味がした。
「文学に興味がおありなんですか?」
人が少なかったこともあるのだろう、バーテンダーさんが話しかけてくれた。文学部にいたときに五色の酒のことを知ったと話したら、バーテンダーさんは壁に掛かっている絵の一つを指した。
「あの絵、尾竹紅吉の絵なんですよ。」
バーにはそぐわない、日本画が掛けられていた。繊細なのに、儚さは決して感じさせない絵だった。驚いたわたしを見てバーテンダーさんは静かに笑っていた。
支払いを済ませて外に出ると、春の風が心地よかった。緊張が解けたこともあってか、急にお腹が減ってきた。
サイゼリアの場所を調べながら、再びここに訪れるにはまだまだ貫禄が足りないだろうか。と思った。
念のための注意書き
本ブログはこういう初任給の使い方したい。というコロナの影響で1日も労働を果たしていない新卒OLの妄想100%のレポートです。